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GRASS WORKS/サミット《ピースバード》デキャンタ(麹谷宏の私的ワイン史9)

水の都ヴェニスは、長い間ガラス美術工芸の聖地の名を誇ってきた。13世紀の末には、そのヴェネチアンガラスの技術の漏洩を防ぐために、工房と関係者と家族のすべてをヴェネチア本島からムラノ島に移し、島から出ることは一切許さなかったというほどガラス工芸の世界を独占していた。

今でもムラノ島は、ガラスのメッカであり、この島のみやげ物屋が並ぶガラス河岸の奥には、世界中に名を知られた作家の工房がいくつも存在する。が、そのガードは依然として堅く、観光客など近寄ることもできないし、関係者でもよほどの紹介がないかぎり見せてもらうことはむつかしい。

素人のぼくが、幸せなことにこのような聖地でガラスの制作ができるようになったのは、面白半分でヴェニスにまでお茶を点てに出かけて行ったことがきっかけだった。

ヴェニスには、100年を越える歴史を持つ世界で最も有名な国際美術展「ヴェニス・ビエンナーレ」がある。2年に1度開催されるその芸術祭はアートのオリンピックと呼ばれ、広大な公園の中に世界の40数ヵ国が独自の展示パビリオンを持ち、また、国際建築展やあの金獅子賞で知られたヴェネチア映画祭なども傘下に抱える世界一巨大なアート・フェアである。

その1995年のビエンナーレには、伊東順二(コミッショナー)、千住博(日本画)、日比野克彦(絵画)、隈研吾(建築)などの友人たちが参加したので、田中一光さんに誘われて応援に出かけた。日本館のその年のテーマ「わび・さび」に合せてオープニングに野点席を設け、2人で茶の湯の友情出演をしたのだった。茶入、茶碗、茶杓、茶筅など主な道具は持参したが、釜を運ぶのはやめてサモワールで湯を沸し、水差と建水はヴェネチアンガラスで調達、という具合に現地での見立てを楽しんだ。

運命の出会いに感謝

みんなからツッチーと呼ばれている人気者の土田康彦さんに出会ったのは、この時だった。彼はヴェニスに住むガラス工芸とマネージメントを勉強中のアーチストだったから、茶の湯の見立ての面白さをすぐに見抜き、積極的に手伝ってくれたのだった。長髪で寡黙なイケメンのツッチーは、女性には当然モテモテだが、彼の好奇心にあふれるアーチストマインドは男にもモテる。ぼくとは親子ほどにも年は違うのに、彼の独特な人懐っこさにもひかれてすぐに仲良くなった。

そして、ぼくのソワ・シャンパーニュのことを知ると、こともなげに、いちどムラノでやってみませんかと誘ってくれたのだった。これは望外のチャンスだった。ぼくには天からの声にも聞こえたこの話に、即刻飛びついたのは当然のことである。

そういうわけで、充分に準備を整え、張り切ってムラノに乗り込んだものの、しかし最初のこの挑戦はまったくの失敗に終った。ぼくはガラスには素人だから、職人と組まなければ作品ができないことは前回に書いた。それなのにぼくは何ごとによらず、共同作業がニガ手な男なのである。相手に気を使うあまり(ぼくはO型の天秤座)楽しさよりも固さが際立ってしまうのだ。それでも日本人同士の場合は、まだ何とかうまくやっていける。が、イタリアのマエストロとはダメだった。超ベテランで技術はすばらしいのだが、肝心の気心がまるで揃わず、いい作品にならない。造っても造っても品のない駄作で、片っ端から割ってしまうものだから、とうとうお前は造りに来たのか割りに来たのかと叱られた。

「麹谷組」の誕生

次の年、違うマエストロを紹介されたが、結果はやはり同じことだった。が、考えてみればこれは当然かもしれない。彼らは長年の修行で、きれいに揃った均一的な製品を造ることを叩き込まれているのだから、ごつくて不恰好でぐにゃぐにゃなぼくのファジーな作風には馴染めないのだろう。

あきらめて帰ろうとしていたらツッチーが、すごく若いけど優秀な友人がいるので、ダメモトで会ってみないかという。シモーヌというその青年は本当に若かった。20才だという。じゃ、これで親・子・孫の三代揃ったナと冗談をいいながらも、これまでのいきさつとぼくのガラスへの思いを話して聞かせると、黙って聞いていたシモーヌは一言、分ったといって立ち上がり、驚いたことに突然造りはじめた。そしてそれが、日本で造っている続きをムラノに移したようにスムーズで、途中、要所要所で、ここはどうする、これはどうだと聞いてくるポイントも、10年の付き合いがあるほどにぼくのメンタリティのツボにはまっている。感動した。鳥肌が立った。

その瞬間から、ぼくはシモーヌとツッチーを相棒に決め、以後この工房で10年間も、ぼくのファジーなソワ・シャンパーニュを造り続けているというわけなのである。そして、その間に彼らは2人ともそれぞれに、結婚し、子供ができ、家も持って立派な作家となったのに、今でも変らずにぼくのガラスには付き合ってくれている。今年もこの原稿を入れたら、また来週からムラノへ行くことになっている。

失敗すれば「コージタニ」

シモーヌの工房には職人が多勢いて、ぼくが制作を始めると替わるがわるのぞきにやってくる。そしてもう10年もぼくの作風を見ているというのに、未だに不思議そうな顔をしてニヤッと笑う。それでも時々、工房の中でコージタニという声が聞こえるので、ぼくの人気はまんざらでもないのだナと思っていた。が、その度に笑い声が入るので、ある時、一体何の話をしているのかと問い詰めたら、ああ何ということ。彼らの手元が狂ってぐにゃぐにゃの失敗作となった時に、あーあ、またコージタニになっちゃった、と毒づくのだという。芸術を理解できないバチ当りな奴らめ。でも、これだからムラノは楽しい。

栄光のサミットデキャンタ

ぼくは、こうして毎年ムラノで制作を続けながら、またその合間には沖縄にも通ってガラスの作品を造っている。どうしてまた沖縄まで、とよく聞かれるのだが、この話は2000年の夏に遡る。

この年の沖縄世界主要国首脳会談(サミット)で、一夜だけ、琉球王朝の宮殿だった首里城で8ヵ国の元首が余人をまじえずに1つのテーブルを囲むサミット晩餐会が開かれた。そして、シェフソムリエに指名された田崎真也さんが、元首晩餐会のワインは、サミットの意義にちなんで8ヶ国のワインをブレンドして(配合比は秘)サーヴィスする、と発表して世間をアッといわせたのだった。

ぼくは、田崎さんのこのアイデアに心底感動したものの、ゆっくり痺れている間はなかった。というのは、そうなるとサーヴィスのデキャンタが必要になり、それなら麹谷だろうと白羽の矢がぼくに向って飛んできたからだった。

デキャンタなら、ぼくはすでにムラノ島で試作していたが、この田崎案にヴェネチアンは使えない。ここは何としても地元沖縄の琉球ガラスで造りたいと考え、何度も沖縄探訪をくり返し、そしてぴったり息の合うマエストロ末吉清一さんと巡り会った。そのご縁が未だに続いているというわけなのである。

ぼくのサミットデキャンタのアイデアは、元首たちが囲むテーブルを世界を結ぶ大海に見立て、その上を動きまわるデキャンタは平和の幸せに遊ぶ水鳥たち。「サミット《ピースバード》デキャンタ」というものだった。

作品は快心の手応えで完成し、田崎さんたち日本のトップソムリエの手でサーヴィスされた。注ぎ口となる水鳥の頭の部分だけが、沖縄の空と海の色に染まる一風変ったこのサミットデキャンタは、元首たちの目にも止り、お言葉を頂き、結局各元首お持ち帰りという栄に浴したのだった。ホワイトハウスで、エリゼー宮で、クレムリンで、どうかいつまでも沖縄サミットの平和の願いを伝えてくれんことを。






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